インタビュー 大庭孝文 個展「ある家の過誤記憶」
2022年3月11日(金)~3月31日(木), GALLERY RYO
聞き手:奥岡 新蔵 氏
── 作品は非常にミニマルな一方、細かく見ていくと表面には凹凸があり、また何度も重ねて描かれた痕跡が見られたりと、その背景にある情報や思考のボリュームを感じます。まずは大庭さんの作家活動について教えて頂けますか?

今、まさに「何度も重ねて」とご指摘頂いたのですが、その層になっていること、重層性や多層性は自分の作品にとって大きな要素になっています。
作品は、キーワードとしては「記憶すること」「忘却することと」という、人間が持っている認知構造について言及しているんですね。ひとの記憶は、たとえば科学の世界では非常に曖昧なものとして定義されているようなんです。「自分では事実として脳内に保管している」と思っている記憶でも、実のところそれは、月日とともに都合の良いように改変したり、あるいは部分的には忘却したりと、様々な操作が施されている、というのが科学的な立場から見た記憶というものの認識だそうなのですが、それが非常に興味深いな、と。
私の絵画は、表面的にはシンプルに見えるかもしれませんが、先ほどご指摘頂いたように、実は複雑な工程から出来上がって来るんですね。具体的には「写真を撮る」→「写真をもとにドローイングをする」→「岩絵具を使ってペインティングに仕上げる」→「そのイメージ画像をフォトショで合成する」→「再び描き起こす」→「水などで拭う」→「アクリル絵具を使って描き足していく」という工程を踏んでいきます。

──「描く」と「消す」あるいは「描き直す」という作業が繰り返されるんですね。その反復は、先ほどお話頂いた記憶の構造と似通ったところを感じます。

おっしゃる通り、記憶も上書きされていくものですが、私も自分の絵に似たような性質を与えています。作品にはベースになる写真や風景があるのですが、おそらく最終的に仕上がった作品からは想像ができないと思います。それほどに様子が変わってしまうからです。記憶は改変され、美化されるものですが、私も作品では一つのイメージを長いプロセスを通過させ、何度も描いたり消したりを繰り返す中で、別の姿になっていくという過程を見ているように感じています。奇妙なようですが、そうした私たちが持っている世界を認識する際のメカニズムを描いている感覚です。

── 表面にはスチレンボードによる凹凸がありますね。光の当たり方、あるいは見る角度によって見え方にも微妙な差が生まれるように工夫されています。そこも何か関係がありますか?

先ほどの記憶と事実の開き、一種の解離のようなものも、言ってみれば見え方の違いだと思うんですね。「あれ、〇〇だと思っていたけど、実は××だった」とか、自分の記憶と過去の事象を並べて見たとき、そこにはたとえば私自身とその場にいた友人では抱いているイメージが違ったりする。
私のしていることは、もう少し枠を広げてお話すると、つまり「ひとによって視点は違う」ということとも言えるのかなと思うんですね。SNSによって思っていること、感じていることが可視化され、共有されやすくなりましたが、いわゆる炎上のように意見や認識の食い違いによって起こる対立も多く目にするようになりましたよね。けれど、そもそも「ひとによって見え方は違うよね」というのが私のスタンスなんです。その人が置かれている環境、状況によって、物事の見え方は大きく違ってくる。
遠回しになりましたが、先ほどの話に戻ると、凹凸などによって異なるビューイングが生まれることは、その視点によって異なる見え方があるということのメタファーになると考えています。
「符号化された景色」 ラピスギャラリー 広島 2020
──「ひとによって見え方が異なる」というのは「正しさ」の話にも関わってきますよね。大庭さんの作品タイトルにも「正しい風景」というワードがよく登場します。

まさに「正しさ」や「正しい風景」というのは十人十色で、ひとによって違うと思います。私のシリーズタイトルにある《正しい風景》は、その正しさの前に括弧つきで、自分にとってのという言葉が入るんです。あくまでも作者である私にとっての正しさであり、そうした正しさはひとの数だけ存在する。そういうニュアンスがあります。英語にすると、correctではなくrightになる。つまり、正しさとはあくまでも主観的なものである、というのが私のスタンスです。

── 作品の制作工程が「記憶」のメタファーになり、鑑賞が「正しさ」のメタファーになっていると。

おっしゃる通りです。

── 現在の作品はどのようにして生まれてきましたか?

今のシリーズ自体は2020年に行った「符号化された景色」という個展をきっかけに展開させたものなのですが、それまでも何かを記録するというメカニズムや行為には関心がありました。作品自体も、ドキュメントというか、記録媒体として位置付けていましたね。言わば忘れないための絵画、という考え方でした。
記録の対象は、そのときは「感触」でした。肌感覚と言い換えてもいいかもしれません。具体的な視覚情報ではなく、どこか場所、空間に滞在すること、あるいは何かの状況に直面したときに覚える、一種の存在感覚のようなものです。そうした肌感覚を記録するための仕事、という感じでした。

── 当時と現在とで、作品のアプローチは違いますか?

ベースにある考え方が違うとは思います。当時は言語化することができなかったですし。
ただ現在も具象性はそこまで高くないとは思うんですが、当時から考えていることとして、具象的にすることは視覚情報に頼ることだと思うんですね。なので、当時もそこは気をつけていたというか、自分自身にあえてルール付けをしていたと思います。視覚ではなく、五感に寄せる、というようなことを念頭には置いていました。

── 記憶や認知の構造に関心が移っていったことのきっかけはありますか?

移るきっかけではなく、深めるきっかけになりますが、一つエピソードとしてあるのは祖母がアルツハイマーに罹患したことです。もう10年前になりますが、祖母の闘病中も基礎知識として学んではいて、ただ近しい親族が病気になるという体験がずっとモヤモヤと頭の中にあったんですね。しかも、アルツハイマーは遺伝するということを知ってからは自分事にも感じていましたから。
ただ自分の中でいろいろなことの整理がつき、作品に落とし込んでいけそうだと光明が見えたのは、先ほどお話した2020年の展覧会がきっかけですね。

── 記憶というのは、私たちの存在そのものに深く関わる事柄ですよね。それをテーマとすることで見えてくるものはありますか。

繰り返しになってしまいますが、やはり記憶というのは美化をともないます。捉えた事柄、経験を上書きし、修正し、部分的には削除する。それは事実とは呼べず、もしかしたら一種のフィクションのようなものかもしれません。とはいえ、だからと言って、「これは良くないものだ」とも一概には言えないと思うんですね。やはり自分にとっては正しさを帯びているし、もしくは愛着だってあるでしょう。私としては、記憶の構造はこういうものです、これは良いです、悪いです、という良し悪しの判断をしたいのではないんです。白黒をつけるより、むしろ私たちが持っているそうした機能を理解する方が、きっと色々と穏便なのではないかな、と思ったりしています。
「biscuit gallery group exhibition : re」 biscuit gallery 東京 2022
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